カンボジアの歴史

1-6世紀にかけてフーナン(扶南)王国、6-8世紀にかけてチェンラ王国として繁栄、その後一時ジャワ王国の支配を受けたましたが、9世紀に主権を奪回し、以後15世紀までアンコール王朝の繁栄を極め、大帝国を築き上げました。
しかしその後、次第に東南アジアの新興国ベトナムとタイ(シャム)から挟撃され、1884年にフランスがインドシナ半島を植民地化しフランスの保護国となる頃には、半ば両国の従属国となっていました。

1941年の日本軍の仏印進駐以来、フランスの影響は後退したが、1945年8月の日本の敗戦に伴い、フランスの間接統治が再開される事によって、独立運動が激化する事になりました。シアヌーク国王の主導のもと全土に広がった独立運動により、1953年11月9日「カンボジア王国」として、完全独立を達成しました。その後、シアヌーク殿下の治世の下で、非同盟中立政策が推進され、平和と発展の時代が続きました。しかし、隣国ベトナムと大国アメリカの影響を受け、インドシナ戦争に巻き込まれることになります。

1970年3月アメリカの支援を得たロン・ノル将軍がクーデターにより政権を握ると、カンボジアの長期にわたる内戦の歴史がはじまりました。1975年4月17日、前政権が倒されポル・ポト政権が誕生すると、さらなる恐怖政治が行われました。貨幣禁止、宗教の否定など急激な大改革が行われ、知識人の処刑や強制労働による衰弱、病気、飢えにより、少なくとも200万人以上の人々が命を落としました。1979年1月、ヴェトナムの支援 を受けたヘン・サムリン政権が誕生し、人々はポル・ポトによる恐怖政治から解放されましたが、新政権がベトナムの傀儡政権とみなされたため、多くの国連加盟国(特に西側諸国)から支持されず、国の再建、復興は進みませんでした。

1991年10月、パリの和平会議において、カンボジア和平協定が調印されます。1992年3月にUNTAC(国連カンボジア暫定行政機構) が最高国民評議会と共に総選挙、新政府樹立までカンボジアを統治することになりました。1993年に国連管理下で第1回総選挙が行われました。現在では、 与党長期政権による政治的安定と経済発展により平和構築が進められていく一方、貧富の格差の拡大が社会問題となっています。

カンボジアの歴史

年月 略史
9~13世紀 現在のアンコール遺跡地方を拠点にインドシナ半島の大部分を支配。
14世紀以降 タイさらにベトナムの攻撃により衰退。
1884年 フランス保護領カンボジア王国。
1953年 カンボジア王国としてフランスから独立。
1970年 ロン・ノルら反中親米派、クーデターによりシハヌーク政権打倒。王制を廃しクメール共和国樹立。
親中共産勢力クメール・ルージュ(KR)との間で内戦。
1975年 KRが内戦に勝利し、民主カンボジア(ポル・ポト)政権を樹立。同政権下で大量の自国民虐殺。
1979年 ベトナム軍進攻でKR敗走、親ベトナムのプノンペン(ヘン・サムリン)政権擁立。
以降、プノンペン政権とタイ国境地帯拠点の民主カンボジア三派連合(KRの民主カンボジアに王党(シハヌーク)派・共和(ソン・サン)派が合体)の内戦。
1991年 パリ和平協定。
1992年 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)活動開始(1992~93年、日本初の国連PKO参加。)
1993年 UNTAC監視下で制憲議会選挙、王党派フンシンペック党勝利。新憲法で王制復活。ラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人首相制連立政権。
1997年 首都プノンペンで両首相陣営武力衝突。ラナリット第一首相失脚。
1998年 第二回国民議会選挙。第一次フン・セン首班連立政権。
1999年 上院新設(二院制へ移行)。ASEAN加盟。
2003年 第三回国民議会選挙。
2004年 第二次フン・セン首班連立政権発足。
シハヌーク国王引退、シハモニ新国王即位。WTO加盟。ASEM参加決定。
2006年 上院議員選挙
2008年 第四回国民議会選挙。第三次フン・セン首班連立政権発足。
2012年 第ニ回上院選挙。ASEAN議長国。
2013年 第五回国民議会選挙。第四次フン・セン首班連立政権発足。

(出典:外務省)

カンボジアの歴史 〜クメール・ルージュの原始共産主義〜

カンボジア内戦の結果、ロン・ノル政権を破ったポル・ポト政権は実権を握りました。そして、すぐに都市部にいた人達を農業に従事させるため強制的に農村部に追いやったのです。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュという政党は、「原始共産主義(階級や格差の全くない原始時代の状態に戻そうとする考え)」を掲げていました。
「知識は人々の間に格差をもたらす」という考えから、「国を指導する我々以外の知識人は自国には不要」と考えたのです。

すべての知識人を集めるために、農村部に追いやった人達や、留学や仕事で国外へ行っていた人たちに向けて「国の再興のために、医者や教師、学生だっ た人は名乗り出してほしい」と布告を出しました。該当する人は名乗り出て、トラックで処刑場に運ばれ、殺されたのです。この知識人狩りは次第にエスカレートしていき、「本を読んでいるから」「海外に行ったことがあるから」というような理由で知識人だとされ、殺されたのです。そのようにして、カンボジア国内 から知識人(と思われた人)は次々と殺されていきました。

大人と違い、何も知らない子ども達は「悪質な思想に染まってない」、「原始共産主義を良く理解する」という理由からポル・ポトは、積極的に社会的な 役割(兵士、看守、医者など)に就かせました。子どもが大人を監視し、殺すというおかしな状況になっていたのです。
また、医療をたった数ヶ月だけしか勉強してない子ども医者による治療が行われ、それにより、状態が悪化し、死に至るということも起きていました。

後に、カンボジアから亡命した人々で結成された軍隊とベトナム軍の軍隊でポルポト政権を攻め、1979年に首都プノンペンを陥落させました。この時ポルポトから解放された国民の85%が14歳以下だったのです。

ポル・ポト率いるクメール・ルージュが実権を握っていた1975年から1979年の4年間の間に、上記のような虐殺の他に、干ばつ、飢餓、疫病などで、200万人〜300万人(正確な数字は不明)のカンボジア国民が亡くなったとされています。

国連カンボジア暫定統治機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia: UNTAC)

ポル・ポト政権下では、100万とも200万とも言われる自国民の虐殺が行われ、類を見ない「恐怖政治」が国内外を震撼とさせました。帰国したシハヌーク殿下も幽閉 されます。ポル・ポト政権幹部は、思想的に文化大革命当時の中国に大きな影響を受けたと言われておりました。また、ポル・ポト政権は、ベトナム戦争終結 後、ソ連に接近したベトナムに対しても、伝統的な反越感情と相まってあからさまな敵対政策をとります。

こうしたカンボジアの反越政策に対し、ベトナム軍は1978年12月カンボジアに電撃侵攻し、翌年1月首都プノンペンを陥落させます。そしてKRの地方小 幹部であったヘン・サムリンを元首とする政権を擁立しました。ポル・ポト率いるKRはタイ国境地帯のカンボジア西部へと逃れました。以降カンボジアでは、 5~10月の雨期には反ベトナム勢力である民主カンボジア三派連合(KR、王党(シハヌーク)派、共和(ソン・サン)派)がタイ国境付近からゲリラ戦を展 開し、11月~4月の乾期にはヘン・サムリン政権が重火器で攻勢する、という内戦が10年間くり返されました。戦火を逃れたカンボジア人は国境を越えてタ イに流入し、多くの人々が祖国を追われたまま「難民」として保護されました。

こうした情勢を憂慮した国際社会は、カンボジア和平に向け様々な取り組みを行い、1989年に第1回カンボジア問題パリ国際会議を開催し、日本は招かれて 参加します。和平会議に日本が参加したのは戦後初めてのこととなります。翌90年には日本は、「カンボジアに関する東京会議」を開催しました。地域紛争の 解決を目指した取り組みとしては、日本の外交史上例を見ない試みでした。この会議で、プノンペン政権と三派連合政府が対等参加する最高国民評議会の設置な どに合意することができました。

1991年のパリ和平協定により、カンボジアの内戦は終結。これを受けて翌92年、国連カンボジア暫定機構(UNTAC)による暫定統治が開始され、国際 社会の支援がようやく本格化しました。日本では92年、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」が成立し、この年、日本による初のPKO派遣を実施(92~93年)して、UNTACの活動に参加し、カンボジア和平に向けて人的な貢献を行いました。

1993年には、UNTAC監視のもと、第1回制憲議会選挙が行われ、王党派フンシンペック党が勝利しました。そこで定められた新憲法で、カンボジアに王 制が復活。シハヌーク殿下が再び国王に即位し、ラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2名による首 相制連立政権が発足し、「カンボジア王国」として再出発しました。

当初は内戦時代を反映した二人首相体制のもとで、国家再建が開始されましたが、総選挙を翌年に控えた97年、フンシンペック党と人民党の間で武力衝突が発生しました(7月事変)。ラナリット第一首相が失脚するなど、国内情勢は再び不安定化しました。

この事態を受け、日本は、訪日したフン・セン首相への働きかけや、停戦とラナリット殿下の選挙参加に関する4項目提案を行うなど、カンボジア国内情勢の正 常化に向けて尽力しました。98年7月の総選挙に対しても、資金的協力を行うとともに、選挙専門家1名と監視員32名を派遣し、自由・公正な選挙の実施に 向けて貢献しました。

この選挙で第一次フン・セン首班連立政権が発足。99年には上院が新しく設けられ、カンボジア王国は二院制へと移行します。同年ASEANへの加盟を果たしました。2003年に行われた第3回選挙では、第二次フン・セン首班連立政権が発足。翌04年にはシハヌーク国王が引退してシハモニ新国王が即位。同年WTOへの加盟とASEMへの参加も決定するなど、カンボジアは着実に民主化への道を歩みはじめました。

(出典:外務省)